199700803 of Yasushi's Life


教育 (August 3, 1997)

今日テレビで鹿児島の小学4年生が4キロの遠泳に挑戦するまでの日々を追った番組を見た。

桜島のそばにあるこの小学校では戦争による中断をはさむが昭和初期から現在にいたるまで毎年夏に小学4、5、6年生が4キロに及ぶ遠泳をおこなっている。もちろん泳げない生徒もいるが、毎年5月から泳力を伸ばすために3ヶ月間にわたるプログラムが組まれる。番組ではこの過程を追い、生徒、先生、父兄が一体となって遠泳に向けて取り組む姿が描き出されていた。

先生は一人一人の生徒のレベルに合わせ様々なメニューを組み、毎日生徒が必ず何か進歩を得ることができ、そしてその進歩をほめるように努力する。家族は子どもの努力をサポートし、生徒は時には辛さで涙を流し、またある時は自分が一歩前に進んだことに喜び、生徒同士もお互いに励ましあい、助け合い、目標である遠泳に参加できる泳力を自分達のものにしようと努力する。

先生は子供たちの成長を自分のこととして喜び、辛さを自分のこととして悲しむ。生徒は先生の期待に応えようとする。そこには教える者と教えを受けるものの立場を超え、人が人を尊敬し、その存在を認める教育があるように思った。人と人との心のやり取りを通じた教育、本来教育があるべき姿であろう。

周知の通り、日本の教育水準は世界でもトップレベルである。この高い教育レベルが戦後日本の経済復興と高度成長を支えてきたことは紛れもない事実である。それを達成してきたのが、マークシート方式の試験に代表される、暗記、記憶偏重の教育であり、点数と偏差値によって輪切りにされた学校ランキングと言えよう。

しかしながらコンピューターテクノロジーの進歩により、既存の社会のパラダイムがデジタルあるいはビットと呼ばれる情報を中心としたものにシフトしていく中で、今までのような全体としての教育レベルを高めるということのみに注力した教育システムが有効に機能していくかどうかはきわめて不透明である。

伊藤師匠の著書「スピードの経済」で詳しく議論されている時代認識、すなわち「平準化」が進む中で同時に「超平準化」がキーポイントとなっていく時代、コンテンツが最重要視される時代の中で必要とされる教育は、単なる知識集積ではなく、新しい何かを生み出していく創造力ではないだろうかと考える。

そういった能力を伸ばすのに必要なものは、生徒と教師といった枠に囚われず、人と人との本質的なコミュニケーションを教育の場に取り戻すことではないだろうか。テレビで放映されていた遠泳への取り組みは、方法論の一つを示唆していたように思える。

人は自分が誰かに認められているということを知ることによって、その期待に応えようとする。今の教育はテストの点数が高いことのみが「認められる」ことである。しかしながら、もっと多様な「認められ」方が教育の場で模索されるべきであろう。

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