告白 The Confession (March 27, 1997)
「告白 The Confession」とは大和銀行ニューヨーク支店で米国債にかかわる不正売買を行って10億ドルをこえる損失を発生させた井口俊英氏本人が事件の顛末を記した本である。
この本に記されていることは一連の事件を井口氏の側から綴った顛末であり、その意味においては語られている内容が真実であるという保証はどこにもない。しかしながら、アメリカの検察当局が大和銀行を訴追する際、井口氏の供述に相当依存し、加えて大和銀行が検察当局との間で司法取引を行い、いくつもの訴因について有罪を認めている事実を鑑みれば、全く荒唐無稽な内容が記されているとも考えにくい。
その様な前提にたって読んだ際に、彼の告白は日本の大手金融機関が抱える問題点を明確に抉り出しているという点で極めて高く評価できる警告の書と言えよう。
本書の記述の中で、大和銀行ニューヨーク支店の管理体制の杜撰さが結局のところ井口氏の犯罪を作りだした原因である事を匂わせる部分があり、本書の存在自体に抵抗を感じる方もいるだろうが、もちろん私も井口氏の犯した罪が管理体制の杜撰さによって正当化されるとは思っていないし、罪は罪である。しかし橋本首相の言う金融ビッグバンを控え、世界中の金融機関との競争に直面しつつある日本の金融機関、特に大手銀行に対する示唆はその様な欠点を補って余りあるものがあると考える。
井口氏は本書の全編を通じて日本とアメリカの文化の相違、それに伴う企業文化の相違、そして相違を理解しない日本の大手金融機関と行政当局の愚かさを、2つの文化の狭間に陥れられた者の視点から浮き彫りにしている。
ニューヨーク州弁護士であり、日本の金融機関に勤務している私は、2つの異なる文化が衝突する局面における彼の考え方に強い共感を覚える。以前にも書いた事があるが、金融の世界を支配するアメリカのルールに従わず、自分達の「おらが村のきまり」に固執しつつ国際金融の世界で業務展開する日本の大手銀行の姿は余りにも見苦しいし、成功などありえないであろう。
この様な言い方をすると「このアメリカかぶれが」という間抜けな感想を持たれる方がいると思うのでもう少し噛んで含んで説明するが、私はアメリカのルールと日本のルールのどちらが善いのか悪いのかという価値判断をしているわけではない。市場における支配的な価値観、即ちアメリカ流のルール、が存在する中で、それをあえて無視し自らの価値観に拘泥することは全く非理性的な振る舞いであり、他の市場参加者からは受け入れられはずもない行為であり、市場における成功もありえないであろうという点を指摘しているのである。
井口氏は日米両方のルールを熟知した上で巨額損失問題をアメリカにおいて表面化させずに隠蔽し解決する方法を頭取宛ての告白状の中で示したが、中途半端なアメリカのルールの理解しかない大和銀行経営陣および日本の行政当局の稚拙な対応と、井口氏の言葉を借りれば「(同氏に対する)裏切り」によって状況は最悪のシナリオを辿り、中途半端な組織的隠蔽の結果、最終的に大和銀行のアメリカにおける一切の業務停止処分と大和銀行に対する有罪判決と巨額な罰金に至る訳である。
事の善悪は別とすれば、当初井口氏が頭取宛てに提出した告白状に記されていた対応方法に基づいて徹底的に隠蔽を図り、大和銀行がこの巨額損失問題を処理していたのならば、事件はここまで大きな問題には発展していなかったであろう。
戦うルールを知らない経営陣が意思決定をしていて国際業務における勝利などありえるはずもない。他の銀行がやっているのだからという横並び意識で国際業務を展開するのは愚の骨頂である。国際金融のルールを皮膚感覚でマスターしたトップがいない銀行は今日にでも米国における資産を売り飛ばし「おらが村」日本に帰省し、自らが熟知している市場でのみ戦うことに専念すべきである。それが火傷を防ぐ唯一の方法である。しかし残念なことに、このような英断を下すことができる見識ある経営陣を持つ銀行の数は少ないようである。
大和銀行はアメリカ行政当局の処罰によりアメリカよりの業務全面撤退を余儀なくされたが、むしろこれは大和銀行にとっては千載一遇のチャンスであったのかもしれない。その意味においては井口氏が10年以上にわたり苦しんだ問題点が、彼の引き起こした犯罪によって解決されたのはあまりにも皮肉な出来事かも知れない。