www.kinoshita.comのwhereabouts (September 15, 1997)
ダイアリーのありようが日記仲間のページで取り上げられているので、自分のホームページ履歴をちょっと振り返ってみた。
最初にホームページを作ったのは大体3年前。最初にしたのは法律のサイトのリンクを作る事。自分で何かできることを考えたら法律と金融と英語だと。それをつなげてみるところから始まった。こんなことやった奴は当時いなかったみたいで、結構重宝されたようだ。今じゃサーチエンジンもあるから意味ないけどね。次にやったのが法律の条文のデジタル化。さすがにこれは大変で、一応六法をカバーしたいと思っていたのですが、うろうろしている内に六法全書のCD-ROMが売り出されて、ちょっとめげてしまった。
その次がCommunication Decency Actと呼ばれるアメリカのネット上の言論の自由を規制する法律に反対する運動。世界中のホームページが黒くなったのを覚えていらっしゃる方もいるでしょう。あれです。なぜ反対するのかを日本語でわかりやすく説明するページを作って、裁判の進み具合を逐次日本語にして伝えていた。EFFの宣言文の日本語訳を作る手伝いをしたり。いろいろな反響があって楽しかった。このトピックはまだまだ興味があるんだけど、現在はちょっと一休み。
その後しばらく低迷期間を経て、今書いている「泰の言いたい放題」という日記を今年の3月の終わりから書くようになった。もともとはメインテーマ以外に自分が日頃考えていることを書いたりしていた「泰の言いたい放題」を、毎日書くようにしたわけで。言いたい放題のフロント部分に書いてあるように、大上段に構えないで等身大で長続きさせる方がホームページを利用したコミュニケーションとしては大事なんだと思ったのです。
わずか3年の間だけど、あっちに行き、こっちに行き。やりかけの事ばかり作り出して、振り返ってみるとなんだか情けないけど。
最初の頃は、インターネットにかかわっている人は誰も彼も今まで経験した事が無い状況にわくわくしているお祭りみたいな状態だった。どんなことができるのか、とりあえずやってみようという時代。今では雑誌を読めばでているし、専用ソフトがあれば何も悩む必要がないこともわからなくて、何でも手探りで手作りだった。ブラウザで日本語すらまっとうに表示できなくて、パッチソフトなんかも出回っていたくらいだ。
インターネットにかかわっている人の多くは好奇心に満ちていて、何かを伝えたいと思っている人たちだった。沢山の人と出会って刺激を受けた。BEKKOAMEにもオフラインミーティングがあった時代と言えば一番わかりが良いかも。残念で寂しいのだけど、そういったお祭り騒ぎはインターネットに関しては終わったんだと思う。ちょうどそう思った時期とホームページから少し遠ざかった時期が重なっている。
でもインターネットが終わったわけじゃない。むしろ、誰の手にもインターネットが行き渡った時代が来た。20万円のオールインパソコンを買って、プロバイダーと月間2,000円で契約すれば、誰だって簡単に世界中へ自分の思いを伝えられる。世界まで大風呂敷を広げなくても、自分の感性とか物の見方といった点で共感できる人たちとインタラクティブなつながりを作り出す場を持てる。インターネットが「ハレ」から「ケ」になってきた。じゃぁ日常でどんなことができるのか、やってみよう。そんな風に思えるようになってきて、「泰の言いたい放題」へと戻ってきた。
STATIONWAGONさんが痛快なことを書いてくれています。
このインターネットの世界で一番えらいのは間違っていてもいいから自分の考えやオリジナルな情報を発信しているやつ、一番ダメなのはただ読んで利用しているだけのやつ、最悪なのは批判だけするやつ。(大機小機9月9日より)
レイアウトや画像、音声なんかは企業やプロがやっているものみたいにはいかない。でも、発信している中身に誰かを惹きつける何かがあれば、テキストだけのページだって十分勝負になる。「面白い」「納得いかない」「そうは思わない」いろいろなボールが電子メールを通じて投げ込まれてくる。どんな形であれ自分で何かを発信しているからボールが返ってくるわけで、沈黙していたらそれは始まらない。
私のホームページはやりかけの事だらけかもしれない。けど、完成された何かを提示する事が目的だとは思っていないから気にはしていない。自分が今考えている事、感じている事を素直に表現し、それに反応してくれる人とインタラクティブにつながっていくための場を作り出す手段としてホームページを捉えたい。難しそうに聞こえるけど、普段しゃべったり、手紙を書いたり、電話をしたり、そういった日常のコミュニケーションとしてやっていることをデジタルの網で拡大されたインターネットという場でやってみるということ。
もし、身の回りに一言もしゃべらないで沈黙しつづけている人がいたら、不思議に思うでしょう。それと同じで、ネットの上でも沈黙していることが不思議だと思われる日がいつか来るはずだから。普段の暮らしで饒舌な私は、ネットの上でも饒舌でありつづけようと思うわけです。