Bottom Line (September 26, 1997)
9月末決算が迫ってきている中、金融機関に勤める私はさまざまな決算処理に関連して生じる作業をするために書類を作ったり、仕訳の仕方を経理スタッフやらバックオフィスの人たちと相談して忙しい日々を過ごしている。
もちろん、決算作業それ自体を否定するつもりはない。決算というのは企業にとっては企業活動の通信簿であり、その結果を見て次のステップをどう踏み出すのかを考える大事な材料である。しかし、決算をするにあたっては様々な思惑が絡むこともまた事実。誰だって自分の通信簿の成績を高く見せたいのが人情だ。すこしでも通信簿を良く見せるために途方も無い労力を費やすことになる。
それでは、そういった労力は何かを生み出しているのか?私にはどうも意味のある何かを生み出しているとは思えないのだ。
80年代アメリカの企業買収、ジャンクボンド全盛の時代にはMBAを取得した若者達が企業決算の魔術師として、ありとあらゆる方法を用いて決算の数字を高め、巨額の報酬を得ていた。そして、企業財務テクノロジーにばかり優秀な人材が偏った結果、アメリカの製造業の多くは疲弊し、国際競争力も低下し、景気も相当落ち込んだ時期があった。
なんだか最近の日本の金融機関はこれと同じ轍を踏んでいるように思えて仕方が無い。金融機関の会計はとても複雑である。「こんなもん弛れが見ても意味はわからんだろうなぁ」とうそぶきながら決算を作っているという笑い話があるくらいだ。償却引当による不良債権処理、延滞債権のディスクロージャー、デリバティブの収益認識時期。いろいろな会計条件が絡む。考え方の違いで結果の数字には大きな違いがでてくる。その違いに一喜一憂する金融関係者が多すぎるのではないか。かつてのアメリカのように財務技術に長けた人間が高く評価される。自分達が作り上げている数字に目が眩み、目的と手段を履き違え、本質的な議論はどこかに置き忘れてきてしまったようだ。
極論すれば、数字をいじくりまわしても何も生まれない。数字の基礎となる企業活動力を高めることで本当に意味のある付加価値を作り出していくべきだ。お化粧された顔でなくスッピンの顔を直視して、いかに自らを変革していくのかということを考えることに限りある労力を割くべきであろう。