ダイアナ元妃の死の文明論的解釈 (September 4, 1997)
ダイアナ元妃の死とマスコミ報道についての関わりの議論が世の中を賑わしている。神戸の殺人事件のときにも、マスコミ報道について様々な議論がなされたことは記憶に新しい。
報道のあり方というものについて多くの意見が述べられているが、この問題を人に固有の特質という切り口と、テクノロジーの進歩という切り口から考えることが可能であろう。
最初の切り口は、一言で言うと「人間は好奇心のかたまりである」ということだ。人が他の動物と異なり、文明を築き上げてきたのは、人がもつ好奇心からである。知らない事を知りたいという欲求が人の発展を支えてきたわけで、これは人の存在意義と言ってもよいものであり、そう簡単にはなくならない。
2つ目の切り口は、コンピューター、通信技術の進歩により、情報が世界を駆け巡る速度、コストが劇的に変化を遂げているということである。ダイアナ元妃の場合は、もしテレビがなければ、彼女は報道陣のバイク追跡の対象にはならなかっただろうし、神戸の事件の場合は、インターネットで容疑者の少年の顔写真が流通しなければ、あそこまでの大議論は起こらなかったであろう。
この2つの切り口は交差している。人の好奇心が情報テクノロジーの進歩により恐ろしい勢いで肥大しつつあり、今までの倫理観や常識と言ったものが想定しえない状況が生じてきているということだ。
文明の発展により人の固有の能力を飛躍的に向上させる術を手にすることとなり、それに伴いメリット、デメリットが生じてきたという例は枚挙にいとまが無い。私は、情報テクノロジーの進歩に支えられたマスコミもまさにその一つであると考える。
今までのところ、人が滅びていないのは、文明の発展にともなうデメリットを何らかの新しい規範を作り出す事によって抑制してきた結果であろう。デメリットが物質世界において目に見える形で現れるもの、たとえば原子力エネルギー、自動車、新しい化学物質などに対しては、人は真剣に問題意識を持ち、総意として規範を作ってきている。
しかしながら、情報テクノロジーの発展から生じるデメリットというものは、それほど目に見えるものではない。人々の精神をむしばむ狂気といった明確な輪郭を伴わない形で問題は生じてくるのだろう。ダイアナ元妃の死、神戸の殺人事件などは、目に見えないものがたまたま形を持って世に現れた瞬間とみることができる。
どの様な規範を情報テクノロジーの発展に伴って築き上げていくのが人にとって望ましいのか、その方向性は私にはいまだ見えてこない。しかしながら、何らかの規範が必要な状況になってきている事だけは事実のようだ。
徒なマスコミ批判に終わる事無く、その裏側にある情報テクノロジーの発展と新しい規範の構築というより本質的な議論を模索していく事が唯一ダイアナ元妃の死を弔う方法だと考える。