優しい社会への投資
September 12, 1998
実家に帰る予定があったので、地下鉄から東京駅へと向かっていた。
地下鉄の大手町駅から東京駅へと抜けるところは、距離もあるし、エスカレーターあり、階段ありと、なかなか歩くと大変である。
エスカレーターのところまで来ると、車椅子の人と、それを介護している女性が立ち尽くしていた。私は、「お手伝いしましょうか?」と声をかけ、たまたま通りすがったもう一人の男性に手助けをお願いして、車椅子を持ち上げ、階段を上った。この階段を抜けても、東京駅の地下街に出るだけで、もう一度階段を上がらなければいけないのがわかっていたので、彼らと一緒に地下街まで歩いていき、そこで再度通りすがりの人に手伝ってもらって、地上まで出た。
介護していた女性曰く「電車で行こうと思ったのですけど、やっぱりタクシーにすることにしたんです。私一人じゃ何にもできないから。。。。」
以前から、たびたび言いたい放題でも発言しているが、残念なことに日本の社会は身体の不自由な方に優しいインフラが整っていなさすぎる。道には段差があふれ、車椅子はたちまち立ち往生である。人の歩く速度は残酷なまでに速く、歩みの遅い人は隅に追いやられてしまう。個人住宅ではバリアフリーという概念がやっと定着しつつあるようだが、パブリックな場所ではそういったコンセプトがまったく感じられない。自分の住むところだけバリアフリーにしても、それがどれほどの意味があるだろうか。それとも、身体の不自由な人は社会に参加できなくても良いと言うのだろうか?
これは間違った考え方である。人はいつ自分が身体が不自由になるかわからないのだ。情けは人のためならずである。
景気浮揚のためにここ何年かで数十兆円の資金が支出された。その内訳は私はわからない。しかし、その内のたとえば1割でも2割でも誰に対しても優しい社会のインフラを作るために使われたのならば、もっともっと過ごし易い日本ができたのではないだろうか?
たとえば、アメリカにはAmerican Disabilities Actと呼ばれる法律がある。これは、不特定多数の公衆に場所を提供する全ての場所(たとえばレストランやディスコなども含む。)は、全ての人が同じようにアクセスできるような施設の設置を義務付けている。こういった法律を日本でも制定すれば、たちどころに内需は拡大するのではないだろうか?それも、社会の誰もが納得する形でである。
自分の選挙区に道路や施設を誘致することが政治であるならば、そんな政治家は不要だ。誰も使わない施設を作るのは本当の社会資本の充実とは言えない。ましてや、天下りを確保するために水増し請求の修正に手加減をするような公費の支出は意味がない。将来の世代へ国債という名の借金を押し付けて公共事業を行うのならば、本当に意義のある社会資本充実を行わなくてはならないだろう。
日本の全ての政治家と官僚が、1週間でよい、車椅子に乗り、身体に重しをつけ、視野を狭くする眼鏡をかけ、自分一人で通勤して、どれほど今の日本の社会が「優しくない」社会かを身をもって感じ取ってもらいたい。そうすれば、何をすべきなのかは自ずとわかるはずである。
強者の意思は黙っていても反映される。だからこそ、弱者の意思を十分にくみとるPublic Servant(公僕)が人々によって選ばれるのである。弱者の意思に振り向かない公僕には、選ばれし理由などないだろう。