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退職の日


普段は派手なワイシャツを着ているが、今日はなぜか真っ白いワイシャツに濃紺のスーツを身につけ家をでる。

朝の電車で日経新聞を開くとトップ見出しに「三井信託海外業務から全面撤退」の記事。もちろん、仕事柄この方針は既に知っていたのだが、何も自分の退職日にこんなニュースが一面に取り上げられることはないのにという苦い思いがよぎる。

そう、私は今まで三井信託銀行に勤めていた。そして、今日会社生活最後の日を迎えようと会社へ向かっている。

オフィスにつくと新聞記事のせいか普段より心なし周囲がざわついている。そんな中、退職の挨拶がおわっていなかった海外の取引先や本店以外の支店に次々と電話をいれる。

「じつは、本日付けをもって会社を退職することになりましたので、ご挨拶と思いまして・・・」

「えっ!本当か?それは残念だな・・・」

繰り返される挨拶。電話での挨拶が一段落すると、今度は本店内の各部署への挨拶回りをはじめる。入社から13年目になるが、そのうち9年を過ごした建物を9階から1階へとだんだんと下っていく。

「寂しくなるよなぁ、木下。残念だけど。でも、また遊びにこいよ。また、一緒に仕事をすることもあるだろうし・・・」

温かい言葉をたくさんもらった。

ふと気がつくと、もう5時になろうとしている。デスクにもどり、空っぽになった引き出しに残っていた、社員IDカード、社章バッチ、名札、健康保険証を取り出し、人事部へ返却する手続きを済ます。三井信託銀行という組織に木下泰という人間が所属していたことを証明するアイテム達、これを返してしまえば、今まで当たり前のように出入りをしてきた会社の建物には「外部の客」としてしかアクセスできなくなる。そして「三井信託の木下です。」と名乗ることもなくなる。退職を決めたときから、この瞬間がくることは頭では理解していたが、その瞬間が実際にくると身体はなかなか頭の理解に追いついていかない。そんなずれが心の中にぽっかりとあいた穴のように感じられる。

人事部から自分のデスクにもどり、机上を整理し、ネットワーク接続のため常時起動してあったPCのスイッチを切る。これで会社のLANシステムともお別れになる。Windowsの終了メニューが出てくる、「次の方法で終了しますか?」「電源を切れる状態にする(S)」そしてEnterキーを押すと、モニターから明かりが消え、ぷしゅっと音をたててハードディスクとファンが止まり、PCが停止した。

最後の片付けがほぼ終わった私の姿を察したのか、部長が「木下、最後にみんなに挨拶するか?」と声をかけてくれる。

一緒に働いてきた仲間が私を取り囲むように集まってくる。月並みな言葉であるが、素晴らしい上司と同僚と後輩に恵まれ、今日の自分があることを感謝する。

挨拶が終わり、デスクに座って周りを見回す。ほぼ8年にわたって働いてきた見慣れたオフィス。いつもなら、ファックス、書類や電話メモが山積みになり、PCには作りかけの資料が映っているが、今は黒いディスプレイ画面とキーボードと電話機がぽつんと置かれているだけだ。

自分で前へ踏み出そうと決意した退職であり、笑顔でオフィスを後にできるだろうと思っていたが、いよいよ最後となるといろいろな想いが一気に込み上げてくる。生業のために仕事をしているという割り切った考え方もあるが、私にとっては働くということはそんなに簡単に割り切れるものではないことを痛感する。バブルが作り出した不良債権と戦ってきた8年。一緒に働いてきた信頼しあえる戦友たちに別れを告げる時が来た。

さまざまな想いを振り切るように立ち上がり、出口をめざす。そして振り返り、オフィス中に聞こえるように「本当にいままでありがとうございました」と最後の挨拶を告げる。同僚、後輩達が立ち上がり拍手で見送ってくれる。

エレベーターで地下1階におり、職員通用口を抜けると、後ろからセキュリティードアが閉まる音。この瞬間、私の三井信託での12年7ヶ月にわたる日々は終わった。

送別会をしてくれる先輩達とともに地上にあがり、タクシーに乗り込む。車の窓からは今も灯りが煌煌とつくオフィスが見える。そして車は走り出し、交差点を左に曲がるとオフィスが徐々に見えなくなる、それを最後まで追いかけるように振り向くが、ついに視界から完全に姿を消した。私は前に振り向き。

「ありがとう、三井信託。そして、さようなら。」

そう心の中でつぶやいた。