運転手
December 20, 1997
普通に考えれば総理大臣が十分機能していなければ大騒ぎになるはずなのだが、ここ10年ばかり日本では総理大臣がまともに機能していなくてもそれほど問題が起きることはなかった。ある時は3ヶ月で3人ほど立て続けに総理大臣が変ったこともあったが、日本の経済が大混乱に陥ることも無く、円が売り浴びせられるという事態も発生しないで済んできた。大統領と総理大臣を単純に比較はできないが、もしアメリカで3ヶ月間に3人の大統領が登場したらそれこそ大事だろう。
日本人にとって政治というものはあっても無くても関係ないし、自分が変えられる訳でも無しというアパシーが強かった。それはなぜであろうか?高度成長を現実のものとした官僚機能によるサポートと、日本企業の繁栄が経済的な安定を供給していたからである。
これは、ちょうどクルマの運転に喩えられるだろう。運転手が居眠りをしていようとも、あるいはクルマの運転を知らない者が運転をしていようとも、この2つのタイヤに支えられた「日本」号はまっすぐな道路を疾走し、乗客である日本人は快適な旅を続けてきた。
しかし、現在われわれがおかれている状況は今まではとは違うようだ。道路はもはやまっすぐではない。曲がりくねった道に突入している。舵取りをしらない2つのタイヤがクルマの速度と重量にぎしぎしと異音を発しはじめ、今にも横転してしまいそうである。多くの乗客が異常に気がつき「あの時どうしてハンドルを切らなかったのだ」と思っているに違いない。しかし残念ながら車輪は自ら曲がることはできない。誰かが舵を取らなければならない。
「日本」号についているタイヤは高性能タイヤだ、まだ間に合う。
運転手が居眠りをしているのであれば、乗客がたたき起こそう。もし運転手が運転をしらなければ、ちょうど映画にあるように乗客の中から運転できるものが飛び出してきて運転手に取って代われば良い。
乗客も一緒になって居眠りをしている状況ではない。今、「日本」号を救えるのは乗客である私たちなのだ。